Masuk「……まさかね。そんなこと、あるワケないか」
愛美は一人呟く。これではあまりにも妄想が過ぎる。
それは、ジュディが物語のヒロインだから起こり得た奇跡だ。現実に起こる確率は限りなくゼロに近いと思う。
「……でも、ゼロだとも言えないよね」
希望は捨てたくない。自分の境遇を憂いて、手を差し伸べてくれる人がきっと現れる――。いつもそう思っているから、愛美はこの本を読むことをやめられないのだ。
――弟妹たちが食堂から戻ってきたことにも気づかず、愛美が読書に夢中になっていると……。
「――愛美姉ちゃーん! 園長先生が呼んでるよー!」
部屋の外から涼介の声がした。愛美はすぐ廊下に出て、彼に訊ねる。
「園長先生が? わたしに何のご用だろう?」
「さあ? オレはそこまで聞いてないけど。ただ『呼んできて』って頼まれただけだよ」
「……そっか、分かった。ちょっと行ってくるね。ありがと、リョウちゃん」
涼介はこの施設の子供の中で、愛美と一番歳が近いので、話も合うし仲がいい。だからこうして、たまに愛美の呼び出し係にされることもある。
でも、彼は「イヤだ」と言わない。彼にとって愛美姉ちゃんは、血は繋がっていなくても実の姉のような存在だから。〝姉ちゃん〟の役に立てることが嬉しくて仕方ないのだ。
――それはさておき。
(園長先生、わたしにどんな御用なんだろ……?)
一階まで階段を下りながら、愛美は首を傾げた。これといって思い当たることがないのだ。
叱られるようなことは何もしていない。……少なくとも愛美自身は。
でも、同じ六号室の幼い弟妹たちの誰かが、理事さんに失礼なことでもしていたら……? それは一番年上の愛美の責任でもある。
(ああ、どうしよう……?)
――でも。もしも、そうじゃなかったとしたら。
(もしかして、わたしの進路の話……とか?)
愛美は今日、学校で担任の先生と面談したのだ。卒業後の進路について、まだ決められないのでどうしたらいいか、と。
その連絡が、園長先生に入っていてもおかしくない。この施設の園長が、愛美の保護者にあたるのだから。
(……いやいや! まさか、そんなこと――)
愛美は首をブンブンと横に振った。
もしそうだとしたら、この展開は愛美の愛読書・『あしながおじさん』のエピソードにそっくりじゃないか!
でも、「ない」と否定しきれない自分がいて、愛美はソワソワしながら暗くなった一階の職員用玄関の前を通りかかった。
――と、そこには一人の人影が見える。
暗いので顔は見えず、見えるのはシルエットだけ。その後ろ姿から分かることは、背の高い男性だということだけだ。
(……わ、すごく背の高い人だなあ。それに……結構若い?)
どうしてそう思ったのかは、愛美にもよく分からない。けれど、何となく「この人、そんなに年齢いってないんじゃないか」と思ったのである。
愛美が彼の後ろ姿にしばらく見入っていると、外が一瞬パッと明るくなり、愛美はまぶしさに目がくらんだ。外に迎えの車が停まり、ヘッドライトで照らされたらしい。
次に彼女が目を開けた時、目にしたのは壁に映ったヒョロ長い影――。
(……えっ!? 待って! これって……同じだ!)
愛美にはピンときた。『あしながおじさん』の本の中に、同じシチュエーションが登場するのだ。
あの時、ジュディはそのコミカルな影を目にして笑い出した。愛美も笑顔になったけれど、理由は違う。
(もしかして、奇跡……起きちゃうかも!)
ジュディのような幸運が、自分にも待っていそうな気がして嬉しかったのである。
一緒に過ごした一時間が楽しすぎて、帰るのが名残惜しいくらいだった。ホントはエントランスまで見送りに来てくれた時にキスしてほしかったけど……。 タクシーの窓を開けて手を振り返した時、わたしはなぜかわかば園を巣立った日のことを思い出したの。あの時に手を振り返した相手は園長先生とか弟妹たちだったけど、今度はホントに家族になる人なんだって思うと何か感慨深かった。 またあなたのお部屋に遊びに行くね。今度はあなたの好きなチョコレートケーキでも買っていこうかな。久留島さんと三人で、あなたの淹れてくれた美味しい紅茶と一緒に食べたいな。 夏休みは、千藤農園で何をして遊ぼうか? またあの山に登る? また渓流釣りにも連れて行ってね。あと、バイクでツーリングもいいな。それからキャッチボールも。今度はちゃんと熱中症対策もしてからやろうね。雨の日には一緒に読書をして、わたしはあなたが本を読んでる横で執筆の仕事をするの。多分、編集者さんがもうすぐ新しい仕事を依頼してきそうだから……。 夜は一緒に星空観測かな。またホタルを見に行ってもいいよね。わたしの両親に、あなたと結婚することを報告したいから。他にも一緒にやりたいことがいーーっぱいありすぎて、ここには書ききれない! 夏休みが始まる日は、純也さんが寮の前まで迎えに来てね。あの車にバイクもちゃんと積んで。 それから、またあの左手で書いた個性的な字の手紙も送ってほしいな。でも、さすがに長文は書くの難しいかな? それじゃあまたね、純也さん。わたしはあなたのことが、これからもずっとずっと、ずーーーーっと大好きだよ!!六月二十六日 令和日本のジュディ・アボットこと相川愛美よりP.S. そういえばこれ、わたしが初めて書いたラブレターだ。ジュディもそうだったけど、どうして書き方知ってたんだろう? なんか不思議だよね。』 ……おわり
****『拝啓、あしながおじさんの純也さん。 ホントは「純也さん」だけ書こうと思ったけど、やっぱりあなたはわたしにとってずっと〝あしながおじさん〟なのでこういう書き方にしました。 そして、メッセージでもいいかなと思ったけど、長くなりそうなので手紙を書くことにしました。 昨夜はよく眠れましたか? わたしはあまりにも幸せすぎて、胸がいっぱいでなかなか寝つけなかった。今でもあれは夢だったんじゃないかって思ってるくらい。 女の子が苦手だった純也さんがどうしてわたしの保護者になってくれたのか、昨日やっと分かったよ。あなたはずっと、あなたにとっての〝ジュディ〟になりそうな女の子、自分が信用するに値する女の子に出会えるのを待ってたんだって。それがわたしだったってことだよね? わたしがあなたのことを「辺唐院家の御曹司」としてじゃなくて、一人の人間として、一人の男性としての辺唐院純也さんを好きになったって聞いて、嬉しかったんじゃないかな。だって、わたしには打算なんて一ミリもないし、あなたからの愛に対して何の見返りも求めたりしないから。これからもずっと、わたしはあなたに無償の愛を注いでいくつもりだよ。だから安心してね! 昨日、初めてあなたの住むタワマンへ行った時、わたしはあまりの立派さに圧倒されて、なかなかエントランスまで踏み入れる勇気が出なかったの。それで、しばらく周りをウロウロしてたら久留島さんに呼び止められて。「失礼ですが、相川愛美様でいらっしゃいますでしょうか?」って。わたし、あのお声だけで彼が久留島さんだってすぐに分かったよ。いつか電話を下さった時の、あの優しい声だったから。 久留島さんとはエレベーターの中で色んな話をしたけど、真剣な顔になってこう言われたの。「純也様はこのごろ大変多忙でございまして、本日もその中でやっとお時間を作られたのでございます。ですので、あまり長居されないとこちらとしても助かるのでございますが……」って。あの人、ホントに純也さんのことをお父さんみたいに心配してくれてるんだなぁって、わたしも感動しちゃった。 もちろんわたしも寮の門限があるし、長居するつもりなんてなかったから「もちろんです」って答えたよ。 実際に入ったあなたの部屋は、いかにも男の人のひとり暮らしの住まいって感じだった。広い間取りだけどインテリアはシンプルで、すっきり片
* * * *「――じゃ、僕は彼女を一階のエントランスまで送ってくるから。留守を頼む」「久留島さん、今日はおジャマしました」 純也さんに電話で呼び戻された久留島さんが帰ってくると、愛美は彼にペコリと頭を下げた。「いえいえ。どうぞまた遊びにいらして下さい。道中お気をつけて」「はい、ありがとうございます。それじゃ、失礼します」 靴を履いて玄関の外に出ると、優しい純也さんはエレベーターへ向かう間、小柄な愛美のために歩くスピードを合わせてくれた。「……あ、そうだ! あの小説ね、九月に発売されることに決まったんだよ」 数日前に編集者の岡部さんから電話で聞かされた嬉しい報告を、愛美は彼にした。「そうか、九月か。おめでとう、愛美ちゃん。ということは、今はゲラのチェックで大変なんじゃないか?」「もう二冊目だから慣れた。絶対にいい本になるはずだから読んでね。見本誌が届いたら、一冊送るよ」「ありがとう。でも、ここはスポンサーとして売り上げにも貢献しないわけにはいかないから。自分でも買わせてもらうよ」「スポンサー……?」 愛美は小首を傾げたけれど、彼女が作家デビューできたのはひとえに純也さんが金銭面で援助してくれたからでもあるので、そういう意味ではあながち間違ってはいないのかもしれない。(〝パトロン〟って言い方しないのが彼らしいかも)「……愛美ちゃん、何を笑ってるんだ?」「ううん、何でもないよ」 ひとりニヤニヤしていた愛美は、純也さんにツッコまれたけれど笑ってごまかした。「純也さん、ホントにありがとう。わたしの保護者になってくれて、スポンサーにもなってくれて。今のわたしがあるのはあなたのおかげです」「何だよそれ? まるで、これで別れみたいじゃないか」「ううん、そういう意味で言ったんじゃなくて。これからもよろしくお願いします、わたしの〝あしながおじさん〟」「……ああ、そういう意味か。こちらこそ、これからもよろしく。俺の……いや、令和のジュディ・アボット」 二人はエレベーターの中で微笑み合い、固い握手を交わした。 愛美によって純也さんが心の支えであったように、彼にとっても愛美が心の支えとなっていたのだ。女性が信じられず、女の子が苦手だった彼を変えてくれた唯一の女の子、それが愛美だったのだから。「――純也さん、お見送りありがと。また会いに
「――あのね、純也さん。そろそろ本題に入ろうと思います。……わたしがあなたからのプロポーズをお断りした、ホントの理由なんだけど」「……はい。どうそ」 ずいぶんと前置きが長くなってしまったけれど、愛美はやっと重い口を開くことにした。これを話さないことには、今日ここへ来た意味がない。……でも、その間に愛美の方の疑問は解決したのだけれど。「わたし、もちろん施設出身だったことに負い目もあったんだと思うけど。ホントの意味で経済的にも自立しないと、純也さんの結婚相手としてふさわしくないって思ってたの。だから、純也さんに負担してもらった分のお金を全額返してやっと、あなたと対等な立場になれるから、それからじゃないと結婚できないって思った。……でも、そんなんじゃいつになったら結婚できるか分かんないよね」「……ああ、そうだよな。じゃあ、それがプロポーズを断った本当の理由?」「うん。でもね、わたしはジュディと同じだから、大好きな人と家族になりたい。ジュディがジャービスのことを大切な人だと思ったみたいに、わたしも純也さんのこと、わたしのこれからの人生にとって大切な人だと思ってる。だから……お断りしたことは撤回させて下さい。これからもずっと、あなたの側にいたい。それがわたしの本心です」 言葉を大事にする作家という職業ながら、愛美はつっかえつっかえ自分の想いを彼に伝えた。でも、十九歳の彼女にとってそれが精いっぱいだ。「…………それは、俺と結婚してくれるってことでいい……のかな?」「うん。改めて、あなたからのプロポーズをお受けします。これからもよろしくお願いします」「ありがとう、愛美ちゃん。本当にありがとう! いやぁ、嬉しいよ! よかった……」 愛美は今度こそ、嘘いつわりのない自分の本当の気持ちで、彼にプロポーズの返事を伝えることができた。そして、彼女にはもう一つ、彼に伝えたい想いがあった。「純也さんにはこれからも、わたしにとっての〝あしながおじさん〟でいてほしい。だから……、また時々は手紙書いてもいいかな? ジュディみたいに、〝あしながおじさん〟宛てで」「もちろんいいよ。ただし、表書きはちゃんと俺の名前にしてね。郵便局員を困らせちゃダメだぞ?」「分かってます」 純也さんは多分、愛美をからかっているんだろう。だから、口を尖らせながらも愛美は笑った。「愛美ちゃん、俺
「……なんだ、わたしと同じだったんだね。実はわたしも、ジュディと自分を重ねてたの。あなたが茗倫女子に進学させてくれるって分かったあの日まで、『こんなこと、自分に起こるわけないよなぁ』って思ってたんだ。こんなの、物語の中だけの話だって」「そうか……。まあ、現実にあのとおりのことが起こるなんて思わないよな」 そう、純也さんが学校を訪ねて来るまでは、愛美もただの偶然だと思っていたのだ。「ところで、俺からも一つ、君に訊きたいことがあるんだけど、いいかな?」「うん。なに?」「ジュディは〝あしながおじさん〟のことを老紳士だと思ってたのに、君は最初から若いって信じて疑わなかったろ? あれはどうして?」 確かに、物語の中でジュディは、最後の最後まで〝あしながおじさん〟のことを老紳士だと思っていた。ジャービスの家で、彼が正体を明かすまでは。「それはね、初めてあなたのシルエットを目にした時に、『あれ? この人、まだ若いんじゃない?』って思ったからだよ。だからずっと、『〝あしながおじさん〟は若い人なんだ』って思ってきたの。純也さんがその正体だって分かった時、『ああ、やっぱり』って思った。っていうか、何となくは正体にも気づいてたんだけどね」 それは、愛美が小さい頃から『あしながおじさん』の物語を読み込んでいたからかもしれない。だから自然と、純也さんのことをジャービスと重ね合わせて「この人が〝あしながおじさん〟なんだ」と思ったのだろう。「それに、純也さんがウッカリしすぎてたせいでもあるんだよ。うまく正体を隠してたつもりでも、しょっちゅうボロ出しまくってたから。自覚ないでしょ?」「あれ? 俺、そんなにボロ出しまくってたかな……」「ほらね、やっぱり自覚ないじゃない」 純也さんが頭をポリポリ掻くのを見て、愛美は愉快そうに笑った。「そういえば、久留島さんってすごくいい人だね。わたしもあの人には感謝しかないよ。表立って動けないあなたの代わりに、わたしのために色々してくれて。ジュディは秘書のグリグスさんのことを嫌ってたけど、わたしは久留島さんのことキライになれないな」 多分、ジュディもただグリグスさんのことを誤解していただけで、彼もいい人だったんだろう。あの物語の後、誤解は解けたんだろうか?「ああ、久留島さんは俺の父親代わりみたいな人だからね。母同様、父にもいい感情は抱い
分かってみれば単純な理由だったけれど、愛美は納得した。それにしても、まさか彼が両利きだったなんて。 その後も、彼は愛美から届いた手紙を一通も漏らさずファイルしていた。バレンタインデーに、久留島さんに贈ったマフラーに添えた手紙もその中に含まれている。「そういえば、久留島さんがあのマフラーをすごく喜んでたよ。今年の冬も使ってた」「そうなの? よかった。今年のバレンタインデーは何もできなくてごめんね」「気にしないでよ。あの頃は愛美ちゃん、忙しかったもんな。それは俺もちゃんと分かってたから何も言わなかったんだ」「そっか。気遣ってくれてありがとう」 実はそのことを気にしていた愛美は、純也さんにそう言ってもらえてホッとした。 バレンタインデーの頃といえば、ようやく出版されることが決まった最新作――〈わかば園〉が舞台の長編小説の執筆が佳境に入っていた頃だった。学年末テストもあったし、愛美はその頃ものすごく忙しかったので、彼もそのあたりの事情を察してくれていたんだろう。 ――すべての手紙に目を通し終えた愛美は、アイスティーを一口飲んだ後に口を開く。彼にどうしても訊ねたいことがあったのだ。「ねえ、純也さん。あなたは女の子が苦手だったんだよね? なのに、どうしてわたしを援助することにしたの? どうしてもわたしを助けたかった理由があったはずだよね?」「その理由は……これだったんだ」 彼はリビングの本棚から、一冊の文庫本を取り出して愛美に差し出した。それは愛美も幼い頃から大好きで、今も愛読書となっている作品。翻訳した人こそ違っているけれど。「これって……、『あしながおじさん』! わたしも同じ本持ってるよ。……でも、男の人でこの本を読んでる人って珍しいかも」「やっぱりそう思うよな。でも、俺も子供の頃からこの作品が好きで、愛美ちゃんほどじゃないけど何冊か集めて読み比べをしてたこともあったんだ」「そっかぁ」 純也さんも読書が好きだということは前に聞いていたけれど、『あしながおじさん』を愛読していたことまで共通していたなんて。愛美は彼に対してさらに親近感が湧いた。「でね、いつからだったか、自分とジャービスを重ねるようになったんだ。境遇も似てるしね。だから、俺も彼と同じようなことができるかもしれないって、大人になってからは考えるようになって。それでわかば園の理事を







